忍者ブログ

ナンバーワンの脱毛サロンはこちら

失敗しないための脱毛はきちんと事前調査から

新たな脱毛の疑問

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

新たな脱毛の疑問

 昼間は暑かったらしい。外出していないのでよう知らんが。
 
 今日解った事いろいろ。

・YouTube で『胴乱の幸助』(by 米朝)を聴いた。これは上方の噺だけれど、なるほど当時は義太夫というもの習い事のてっぺんにあった。大阪のオヤジ達は今のゴルフみたいな感覚で上達を競い合ったみたい。市中には義太夫教室が溢れていた。幸助の趣味が喧嘩の仲裁で、義太夫教室から流れる心中話(連理の柵)を実話と勘違いするという設定がいかにも上方の落語らしくて面白い。連理の柵を「帯」と省略するところも面白い。

・これと正反対なのが東京落語の『寝床』。「明治大正の頃は大変にこの義太夫てぇものがお盛んだったそうでございますな」。黒門町はこれで終わらしちゃう。どう「お盛ん」だったか説明がない。志ん生のは「センの呂昇や小清なんてぇ人は大変に脱毛人気だったそうでございますな」「どーするどーするなんてどうにもなりゃしねぇ」という描写を入れて明治の頃の義太夫人気について触れている。ゆえにこの噺の構成に関しては黒門町は分が悪い。この噺、もともと上方だって事は忘れてはならんでしょうな。

・志賀直哉や一葉など義太夫ファンの作家は多かったようだな。そうして、帝大や慶應の学生には大人気(但し明治30年代まで)。一方、新内のような江戸浄瑠璃に大御所文人の贔屓筋がいたという事は知らない。もちろん大店の隠居のサポーターはいた筈だが。

・こうしてみると、義太夫は上方では確かに旦那衆の旦那芸として根付いていたと思うけど、東京では一部インテリの遊びだったのではないかと推測する。寧ろ庶民の間では新内や都々逸が主流だったのではないか。と、いう仮説。明治40年代にあっというまに廃れてしまったというのがどうにも胡散臭い。

・北斎の浮世絵には浄瑠璃を習う旦那の絵が残っている。俺は最初にこの絵を眺めたとき、義太夫だと思い込んだけど、もしかしたら江戸系の音曲だったのかも知れない。

と、あれこれ考えてみた。こういう疑問を解くには、大学の図書館か古文書館に籠らなければならぬ。

次の楽しみができた。
PR

コメント

プロフィール

HN:
脱毛ガール
性別:
非公開

P R