この記事のタイトル、誰が付けたのかは知らぬが、これ自体偏見に満ちていると言って良い。
即ち、言外に「止めないのは怪しからん」と言う見解が見え隠れしているからだ。
つまり、「芸人風情がツイッターなどやるものではない」と言う偏見だ。
さて、そんな偏見はさておき。
嘗て、芸人の活躍の場は小屋や劇場であり、お座敷であり、野外であったと言って良い。
これに対して、最近はテレビなどでの活躍の方が盛んだったりする。
つまり、観客の反応は、撰ばれた“お行儀のよい観客”をえんずる諸君のそれを別にして、相当の時間差を持って到達するか、ないしは全く到達しない。
以前、プロの音楽家に伺ったことがある。
大ホールの演奏よりも、小ホールの演奏の方が、怖い。
小ホールの演奏よりも、サロンや体育館等での演奏の方が遙かに怖いと。
理由は、聴衆との距離。
大ホールでは、客席最前列からステージ最前列までの距離は10メートル近くあるし、高低差も一メートル半はある。
小ホールでは、客席との距離は5メートル位だし、高低差は一メートル余り。
サロンなどでは、客席との距離は数メートル、高低差は数十センチになる。
聴衆の反応が、リアルタイムで伝わることが、実に怖いと言うことだ。
さて、ツイッターの反応というのは、この聴衆との距離に匹敵するものと言っても良かろう。
脱毛もすなわち、酷評する書き込みは、悩ましいものだし、ボロクソ言われると、誰でも気分のいいものではない。
だが、こと芸人に関しては、酷評されることは、歓迎すべき事だろう。
酷評する者に限って熱烈なファンで、批判するのは、叱咤激励と言う事も少なくないからだ。
つまりは、全くの無反応位恐るべきものはないと言うことだ。
酷評をどう受け止めて、今後の芸に活かしていくか。
それが芸人当人の行く末を決めると言って良い。
始めるのも止めるのも勝手だ。
だが、始めるときとは違い、止めるときは、聴衆から、そして自分自身から逃げることをも意味し、ひいては芸人としての、或いは芸の限界を、自分自身で決めることにもなりかねない。
学芸会や身内の宴会芸ならば、それでもよかろう。しかし、それを生業とするならば、あまりにも認識が甘すぎると指摘せざるを得まい。
どんなことであれ、話題を自分に集めてなんぼのものと言うのが、芸人だろう。